ゲド戦記

遅ればせながら、友達と見てきた。

ゲドとアレンが初めて会ったシーンから、テナーの家で畑を耕すシーンまでは、十分に楽しめた。
テルーがテルーの歌を歌うところは、好きなシーンだ。歌声は素直に心にしみこんだ。


だけど、その後は違和感が拭い去れなかった。
何故テルーはアレンを認めたのか?
ハジア売りはどうして、ハジアを売っているのか?
ウサギはクモに違和感を感じないのか?

それぞれの人の感情の動きの描写が、opilioには残念なくら表面を撫でている様に見えた。
一シーンでも良いから、テルーがアレンを認めるきかっけを分かりやすく描いてほしかった。一生懸命家畜や植物の世話をし、その生命をいとしそうに見つめるアレンを見つけるテルーといったものでよかったと思う。
ウサギがクモの手先になっていることの悲しみを示すシーンを描いてほしかった。自分が思うほど悪を楽しんでいないことや、クモへの憐憫も描いて欲しかった。
クモの孤独を想うキャラクターをアレン以外にクモ側に置いて欲しかった。

特にクモとウサギの見かけ上の形態が、風の谷のナウシカにおけるクシャナとクロトワに似ていただけに、その想いを強く感じたのかもしれない。


分かりやすい描写はあざといと言われるかもしれないけど、ゲド戦記という矛盾に満ちた物語を2時間の枠に入れて描くには、そういったシーンの切り分けは必要だったと思う。

アレンとゲドの淡々とした生活の美しさに時間を裂く必要があると思うならば、特にそう思う。
だけど、吾郎監督の偉大なる父へのアンチテーゼを秘めた作品だったとは思う。主人公から距離を置いた淡々とした描写はopilioは嫌いじゃない。吾郎監督の次作を期待したい。